終電を逃して出会った麦くん(菅田将暉)と絹ちゃん(有村架純)。
出会いは偶然だったけれど、必然だったのではないかと思えるくらい気の合う2人。
好きな物が同じで、考えていたことも同じ。

※この先ネタバレ注意
学生の頃に終電を逃して出会って、すぐに同棲して、楽しいで満ち溢れた生活。
学生を卒業して社会の一員となり、
好きなことだけでは生きていけないと現実を見た麦くんと
好きなことで生きていきたいと理想を追った絹ちゃん
最初は麦くんも好きなことで生きていきたいと思っていた。
でも、世間体・お金と現実の歯痒さを知って、
現実で生きるための選択をした。
「就職するってだけでなにも変わらないよ」
そう言った麦くんと同じことを恋人や友人、自分自身に放った人はどれだけいるだろう。
変わらないでいられるために、変わったのに
なぜ思い描いていた幸せとかけ離れてしまったのか?
社会人になることは何かを諦めること?
日常の中でワクワクときめいたはずなのに、だんだんとそんなワクワクがノイズになっていく。
「この人とずっと一緒にいたい」と思った心は実際にあって、嘘をついたわけでも裏切った訳でもない。
ただ、2人の歩くペースと生き方が変わっていっただけ。
この儚さが、寂しさが、愛おしさが、恋愛の醍醐味なのだ。
この映画をみて
過去の好きだった恋人を思い出す人
マンネリぎみな恋人と別れる決意をする人
盛り上がったパーティ真っ最中の恋人への愛を再確認する人
頭の中に浮かぶ相手に何を想うかはその人の経験次第。
どうすれば2人はずっとずっと楽しくニコニコしていられたのかを考えることは、2人のこれからの幸せを否定するようなものだ。でも、それでもふとした時にどうしたって考えてしまう。
理想を追いながら2人でのんびり「楽しいね」と言い合いながら歩む人生は無かったのだろうか、と。
理想と現実
自分の力じゃどうしようもない壁や強制力を前にして好きなものに対して感度高くときめき続けられるだろうか?
理想を追うためには向き合わなければならない現実もある。
本屋に行っても仕事の本を手に取る麦くんの人生は、それはそれで人生における選択であり、夢を諦めて妥協した人生だと決めつけるのは失礼だろう。
実際に好きなもので生きていく道がどれほど厳しいか皆どこかで気づいている。
だから、麦くんが、いつまでも好きをベースに生きていこうとする絹ちゃんに対して抱くどこかで見下した気持ちやもどかしい苛立ちがわかってしまう。
なのに、それなのに、
「やりたくないことはやりたくないよ」と言い切れてしまう絹ちゃんになりたいとも思ってしまうのだ。
私たちは矛盾していて、日々変化していく。
スッキリとわかりやすい答えはどこまでいってもない。
その時々に生まれる感情を胸に、答えのない人生をがむしゃらに生きるほかないのだ。
なぜ関係性は戻らなかったのか
どれだけ長い時を共に過ごしても、どれだけ好きなものが同じで考えていたことが同じでも、
相手を理解して歩み寄ろうとする努力を面倒に感じてしまったら、もう終わり。
一度終わったものは、あくまでも「一度心の中で終了ボタンを押されたもの」であり、
「ふわっとした希望と恋心を抱いて目をキラキラさせていた頃の自分」には戻れない。
別れはバッドエンドか
とはいえ、2人の物語が悲しい終わりを迎えたかというとそうではない。
終わりは始まりだから。
大好きでたまらない相手と出会えた事実と過ごした日々は財産であり、自分の一部となる。
お気に入りのパン屋さんを見つけたことや、2人で同じ音楽を聞いたこと、
大学の授業をサボってセックスし続けたことや、一緒にお風呂に入ったこと。
待ち合わせをしてデートをしたり、すれ違った経験も
全部含めて大切だった人との思い出を持っている人は強くなれる。
別れは寂しいけれど、「別れたこと」よりも「大切な人と出会って共に過ごせたこと」を大事にして、自分の生き方を見つめなおせればいいな。
どんな生き方を選んでも、責任を取るのは自分。
だから最後に「全部含めて良い人生だった」とさえ思えればそれで良いのだ。
きっと2人はそう思えるだろう。
いや、そう思えたならいいなと、私が勝手に願っている。
私も、いま大切に思う人をもっと大切に、
ありがとうとごめんねを繰り返して生きていきたい。
そう再認識させてくれる映画だった。